列強興亡史 -great powers history-

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ドイツ史戦間期編①(1920年~1924年)(執筆中)

1920年1924年

戦後のドイツ帝国の動向

 20年代のドイツは政治、経済、社会、軍事、外交の各分野の改革・変化が起きた。

政治分野

 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は1917年の講和条約締結後に大戦敗戦は自らの失政の過ちと認識しそして反省した。カイザーは国政改革が必要と考え、翌1918年にカイザー自ら国政不関与宣言を発した。カイザーと政治家はイギリス式立憲君主制の導入を志向した。関係者を交えて1年間の討議の末1919年に国政諸改革による帝国憲法改正により皇帝の政治的権限縮小と引換えに議院内閣制度を導入した。

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帝国国政改革について討議する各政党党首達

 立法府は22邦国3自由市の地方議会から選出された代表が議席(一地方2議席の計定数50議席)に就く非公選6年制参議院、各邦国と各自由市の人口比に応じた議席(定数397議席)が設けられ小選挙区制の公選4年制代議院で構成される両院制度が導入された。行政府長(内閣首相)は代議院議員らの総意に基づき選出され、各省国務大臣は首相指名により決定される。これにより君主の政治的権限を縮小し立法府と行政府の政治的権限を相対的に高め国民主権に基づく立憲君主制度が導入された。

 また、軍隊の権限についてはルーデンドルフ独裁の反省から1922年に帝国軍を立法府と行政府の統制の元に置き、軍人事権は行政府の国防大臣が、(軍中央を歴任し退役済の元軍人政治家議員が任命されるのが慣習となる)敵国への宣戦布告・休戦協定・講和条約、国防予算成立等は立法府の同意が必要であるものとし、文民統制によって軍の政治的関与を遮断した。その一方で有事の際の軍事作戦の計画及び遂行の権限は帝国軍の専任的権利であると定め、戦時の場合は状況に応じた素早い現場配置や人事転換が求められる為に行政府の軍人事権は戦時の場合にのみ帝国軍に一時的に権限が移管される仕組みとなった。立法府、行政府、参謀本部の合同会議の総意に基づいて戦争開始、交戦国との休戦及び講和交渉が行われるものとする。また、その決定権と交渉権はこの合同会議が有し必ず議会の承認に得て実行されるものとすると規定された。これによりドイツは『君臨すれども統治せず』を原則とした以前より民主的な政治体制に変革した。

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軍隊の文民統制に置く先例を作ったルーデンドルフ将軍

 1920年に第1回代議院総選挙が実施された。結果は社会民主党(SPD)が過半数以上の議席を獲得し第一党に、国家人民党(DNVP)が第二党に、中央党が第三政党となった。これに伴い社民党エーベルト政権が誕生した。しかし並行して行われた参議院代表選出選挙では僅差で社民党議席を獲得したが過半数以下が国家人民党と中央党などの保守政党議席を占めた。

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フリードリヒ・エーベルト初代首相
経済産業分野

 エーベルト政権における経済政策は大戦中から戦後しばらくは戦争経済の影響からインフレ(物価上昇)が進み国民生活に悪影響が出ていた。賠償金支払いに関して財政的負担が少なく支払いは当初問題なく履行されていた。しかし、インフレに加え戦後の戦時経済から平時経済への移行に伴う一時的不況と為替相場マルク安進行により、賠償支払いに支障が生じ始めた。賠償支払問題解決の為に英米仏独の四蔵相が会談し賠償委員会の設立と第一次支払計画が策定された。アメリカのドイツへの資本投資による経済活発化と安定を図り、ドイツの財政的余裕により対連合国賠償支払が安定的に行われ賠償を得た旧連合国の対米債務支払いの促進を図ることが決定された。また、ドイツ帝国銀行総裁が緊縮政策を実施したことでインフレが解消され賠償問題とインフレ解消によりドイツは経済的好況が到来した。

外交分野

 エーベルト政権の外交は1917年10月から始まったロシア内戦では英独仏伊米日の列強諸国の介入にてドイツ軍は列強諸国の中で2番目の大規模な軍隊を派兵して1921年にロシア内戦のロシア共和国・白軍側の勝利に貢献した。大戦後ドイツ帝国は協調外交を掲げ国際協調路線を採りワシントン海軍軍縮条約への参加と署名、国際連盟加盟など国際的枠組みへの参加によるドイツ帝国の国際的地位向上と国際的信任向上を図った。また、ドイツ帝国の外交努力と英仏独伊露の大国間均衡と協調が保たれることで欧州地域の政治的安定が訪れた。

ドイツ史WW1&戦後初期編(1914年~1919年)(執筆中)

1914年~1916年

第一次世界大戦の勃発

 オーストリア帝国皇太子の暗殺により連合国対同盟国の第一次大戦勃発する。しかし、西部戦線と東部戦線では一進一退の膠着状態を陥り戦争が泥沼化し始めた。1915年にドイツが無制限潜水艦作戦を開始し米国人が多数犠牲になったルシタニア号事件、アラビック号民間船舶撃沈事件が起こる。この事件を口実に1915年にアメリカが連合国側で参戦した。これにより同盟国側は劣勢の状況に陥ることになる。

アメリカの第一次大戦参戦

 1915年7月頃にアメリカ軍の先遣部隊が到着。その後1000万人規模のアメリカ軍が欧州に到着し西部戦線に投入される。1915年8月~1916年11月までに西部戦線の連合軍攻勢のソンム会戦をはじめとする主要な戦いにドイツ軍が敗北し西部戦線の立て直しの為に後退を余儀なくされた。また東部戦線においてはロシア軍のブルシーロフ攻勢の戦いにドイツ軍が敗北する。1916年12月に正式にドイツを含む同盟国が休戦を連合国側に申し入れ連合国はこれを受諾し休戦が成立。翌1917年に同盟国対連合国の講和交渉が始まる。

1917年~1919年

ドイツ帝国敗戦と休戦・講和交渉と講和条約締結

 1916年年12月に正式にドイツを含む同盟国が休戦を連合国側に申し入れ連合国はこれを受諾し休戦が成立する。翌1917年2月からパリ講和会議が行われ同年8月に署名・批准されドイツ対連合国の講和条約(ヴェルサイユ条約)が締結された。

ヴェルサイユ条約の条項

  1. アルザス=ロレーヌ地域は条約発効後5年間国際管理地域としその後は仏か独に帰属する現地の住民投票を行う。
  2. カメルーン植民地の1911年以降に併合した地域の仏へ返還、太平洋植民地の一部を日本と英国へ割譲。その他ドイツ植民地とアルザスロレーヌ地域の領土以外のドイツ本国領土は現状維持とする。
  3. 賠償額に関しては30年賦で12億6000万金マルクずつ支払う。
  4. 独仏国境部及びラインラント、仏・ベルギー国境部を非武装地帯とする。

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ヴェルサイユ講和会議の様子

ドイツ帝国の存続

 ドイツ帝国はWW1に敗戦したが連合国側がドイツ皇帝の戦争責任不問、国力の応じた賠償金支払い、ドイツ本土の領土維持等ドイツに対する温情的措置が採られた。これは欧州の勢力均衡論に見識のある米国ローズヴェルト大統領が大戦後の欧州をナポレオン戦争後のウィーン体制後のような秩序に変革を目的とした。これに一部を除き他連合国の同意を得た。ローズヴェルト大統領の講和会議の際に残した覚書によればドイツ帝国という大国を名誉ある和平により存続させ国際協調路線に転換させる事で欧州の政治的安定を図るという意図があったからだ。しかし、大戦中に連合国側で甚大な被害を被ったフランスはこの温情的措置に反対し莫大な賠償金、領土縮小、植民地喪失、などの懲罰的措置をとる事を望んだ。しかし、大戦に早期参戦し西部戦線の主要な戦いに勝利に貢献しフランス戦債を引き受けていたアメリカ側の意向に反対することは難しくアメリカ側が提示した妥協案を吞まざる得なかった。こうしてドイツ帝国は存続した。

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ドイツ帝国の存続は欧州の政治的安定に不可欠な存在とされた。

ロシアボリシェヴィキ革命への列強干渉とドイツ参加

 1917年3月(ロシア暦2月)にロシア帝国は2月革命によりロシア皇帝退位し、革命後にケレンスキー首班のロシア共和国臨時政府が樹立した。同年11月(ロシア暦10月)にレーニン率いるボリシェヴィキによる10月革命が勃発した。英仏伊独ら四外相が緊急会談を実施しボリシェヴィキ赤化革命が世界への波及阻止とロシア共和国の存続との為に白軍支援とヨーロッパロシアに軍隊派兵の決定をした。英仏伊独の干渉軍派兵の決定にアメリカ、日本も支持し日米も極東ロシアに軍隊共同派兵を行った。列強諸国の中でイギリスに次いでドイツ帝国は大規模な軍隊をロシアに派兵した。

アメリカ史戦間期編③(1930~1934年)(執筆中)

1930年~1934年

世界恐慌

 1929年10月29日木曜日、同年年9月4日頃から始まったアメリカの株価の大暴落に端を発し株式市場の暴落(通称暗黒の木曜日)で世界的ニュースになった。大恐慌は、豊かな国と貧しい国の両方に壊滅的な影響を及ぼした。個人所得、税収、利益、価格は下落しましたが、国際貿易は米国の貿易促進の自由貿易政策により30%減で収まった。米国の失業率は20%前後に上昇し、一部の国では40%にまで上昇した。世界中の都市、特に重工業に依存している都市は大きな打撃を受けた。多くの国で建設が事実上停止した。作物価格が約60%下落したため、農村と農村地域は苦しんだ。代替の雇用源がほとんどない急落する需要に直面して、鉱業や伐採などの主要産業に依存する分野が最も苦しんだ。

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1929年の暴落直後にウォール街に集まる群衆

 民主党のスミス大統領は古典派経済学の信奉者であり国内経済において自由放任政策や財政均衡政策を採った。その一方で1930年にはシャウス・デイビス法を定めて自由貿易政策を採り、世界各国の恐慌の安定化を図った。1931年、クレディタンシュタルトの倒産を受けて6月からスミスモラトリアムを施行した。合衆国内の銀行は9月に305行が、10月に522行が閉鎖した。9月中旬から10月末にかけてヨーロッパへ金が流出した。

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民主党スミス大統領

民主党スミス大統領の恐慌対策

 スミス大統領は、貿易不振を世界恐慌の原因とみなし、貿易振興の観点からスミスモラトリアムを提唱し、第一次世界大戦の賠償金の支払い猶予の大統領令に署名した。一方で世界恐慌は貿易不振が原因であると考え低関税のシャウス・デイビス関税法に署名した。これは主要貿易相手国との貿易促進を図った。貿易促進により国際経済は一応安定化し始めたが依然各国は長期的不況が続いた。アメリカは国内経済対策が後回しとなった為に1932年までに失業率は20%前後に達した。

 しかし、1920年代に行った社会党社会福祉政策が功を奏して失業者の公的失業保険申請が増加し大多数の失業者は一定期間生活苦ならずに済んだ。社会党政権が設立した連邦政府管轄の再就職支援等を行う雇用促進局への利用が増加した。そのかいあってか失業率は数十%程度に低下した。しかし、予想以上に企業の倒産が相次いでいた為に再就職が難航する失業者が発生した。また、公的失業保険は時限があり失業保険が期間満了し生活貧窮に陥る者が発生した。

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大恐慌初期の取り付け騒ぎでニューヨークの銀行に殺到する群衆

1932年大統領選

 1932年大統領選では国内経済立て直しが焦点となり民主党は引き続きスミス候補、共和党はラガーディア共和党候補、社会党はトーマス候補が出馬した。大統領選は共和党のラガーディアが制した。当初この大統領選は社会党が制するだろうとの見方が強かったが20年代社会党が行った公共福祉政策の欠点と不備が恐慌によって明るみになり批判の的となった。民主党はスミス大統領の国際経済優先国内経済劣後を行った事で国民からの批判が相次いだ。その経緯もあり共和党のラガーディア候補が選ばれた。

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(左から)トーマス社会党候補、ラガーディア共和党候補、スミス民主党候補

1933年ラガーディア共和党大統領就任

 1933年に就任したラガーディア大統領は「ニューディール」政策を実施した。ラガーディアは大統領就任前のラジオでの選挙演説で「大統領に就任したら、1年以内に恐慌前の物価水準に戻す」と宣言した。ラガーディア大統領は1933年3月4日に大統領に就任すると、翌日には日曜日にもかかわらず「対敵通商法」に基づき国内の全銀行を休業させ、ラジオ演説で1週間以内に全ての銀行の経営実態を調査させ預金の安全を保障することを約束し、銀行の取り付け騒ぎは収束の方向に向かった。ラガーディアは1933年に大統領に就任後、ただちに大胆な金融緩和を行ったため信用収縮が止まっている。ノリスは次に述べる100日間の直後にボーラ・ジョンソン法を制定して、この約束を果たした(連邦預金保険公社の設立と銀証分離)。更に連邦議会に働きかけて、矢継ぎ早に景気回復や雇用確保の新政策を審議させ、最初の100日間でこれらを制定させた。

  • 緊急銀行救済法
  • TVA(テネシー川流域開発公社)などによる公共事業
  • CCC(民間資源保存局)による大規模雇用
  • 社会党政権が制定した労働時間の短縮や最低賃金の確保の継続強化
  • 連邦政府後援の農業協同組合による生産量の調整
  • ラフォレット法による労働者の権利拡大

さらに1935年には第二次ニューディールとして、失業者への手当給付・生活保護から失業者の雇用へという転換を行い、雇用促進局の事業拡大を図り失業者の大量雇用と公共施設建設や公共事業を全米に広げた。対外的には前政権の自由貿易政策を継続し、大統領権限による関税率の変更や外国と互恵通商協定を締結する権限が議会で承認された。

アメリカ史戦間期編②(1925~1929年)(執筆中)

1925年~1929年 

1924年大統領選挙

 1924年大統領選は社会党はデブス候補、共和党はラフォレット候補、民主党候補はコックス候補の三つ巴で大統領選は再び社会党のデブス候補が制した。1921年社会党政権が成立を境にアメリカの政党政治は変化し始めた。まず、共和党ローズヴェルトの革新主義路線を受け継ぎ主に北部地域に地盤を持つリベラル政党へと変化し始めた。。対して民主党保守主義路線へと傾倒し主に南部地域に地盤を持つ保守政党へと変化し始めた。社会党社会民主主義を掲げ中西部地域、西部地域に地盤を持つ第三政党として台頭した。こうしてアメリカの政党間の分極化し始め後に第五政党制時代と呼ばれる時代に突入した。以下社会党の諸政策である。

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(左から)デブス社会党候補、ラフォレット共和党候補、コックス民主党候補



経済産業政策

2期目ではアメリカの産業発展の副産物であった格差拡大の是正の為に反トラスト法の発動によるローズヴェルト以上の巨大資本の統制を図った。最低賃金制度と累進課税制度を導入し所得再分配を図ることで格差是正を図った。農業政策においては農民の利益保護と農産物の安定的生産と供給を図る為に連邦政府が支援する形で農業協同組合の組織と強化、農民の組合加入促進と農協による農場経営と貯蔵施設、加工施設、輸送手段の農協管理化を推進することで農民の雇用安定と農産物の安定的供給、そして営利企業の参入障壁を設ける法律を定めた。当時加熱し高騰していた株式市場における金融所得に対する課税と政府の市場介入への法案が検討されたが議会の民主党共和党の両保守派議員の反対に遭い行われなかった。

 

公共福祉政策

2期目では公的国民皆保険制度、公的老齢年金制度、失業保険制度を導入した。鉄道事業、通信・電気事業、水道事業、ガス事業などの基幹産業の公有化を実施した。教育制度の充実の為に初等中等過程の義務教育制度の導入と学校給食無償化や私立学校の補助金支給を行った。雇用政策では失業者に対する再就職支援や手当支給等を扱う連邦政府直轄の雇用促進局を設立した。しかし、この社会福祉諸政策は南部地域においては州政府が有色人種に対しては一部適用できないように阻止を図る法律を制定した。南部黒人が社会福祉制度の適用と公民権法の制定は第二次大戦後に持ち越される。

1928年大統領選

 1928年大統領選は社会民主主義政策の継続と金融市場への課税を掲げた社会党の若手ノーマン・トーマス候補が出馬、民主党は経済的繁栄の更なる繁栄と継続、産業界の経営者の意向を受け低関税政策による自由貿易を掲げたアルフレッド・スミス候補が出馬、共和党は穏健的革新主義政策による政府の統制と健全な市場経済による公益資本主義と高関税による保護貿易を掲げたハーバート・フーヴァー候補が出馬した。国民は社会福祉が浸透し実感を得ていた為に社会福祉の次は更なる経済的繫栄の声が高まり大統領選は民主党のスミス候補が当選した。翌1929年に社会党政権から民主党政権へ交代しアメリカ史上初めてのカトリック信徒の大統領が誕生した。

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フーヴァー共和党候補(左)、スミス民主党候補(中央)、トーマス社会党候補(右)

 

アメリカ史戦間期編①(1920~1924年)(執筆中)

1920年1924年

1920年大統領選挙

 1920年大統領選が実施されローズヴェルトは本選挙の不出馬と同時に政界引退を表明する。ローズヴェルトの実質的後継者となるハイラム・ジョンソンが共和党候補となり対する民主党は巨大資本の統制、連邦政府の強化、高関税貿易政策等の共和党諸政策を批判し平常への回帰と低関税貿易政策による自由貿易促進と米国企業の海外市場進出促進、巨大資本の統制を図る前政権の政策を継承しつつ小資本者と上昇途上者への機会均等を設け競争復活狙った企業規制政策を掲げた民主党ビル・マカドゥー候補、社会民主主義の実現と農民・労働者保護、退役軍人に対する福祉、人種間連帯、社会福祉充実、基幹産業の国有化を掲げたアメリカ社会党のユージン・デブス候補の三つ巴の戦いとなり、最終的にアメリカ社会党のデブス候補が大統領選を制した。

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(左から)デブス社会党候補、ジョンソン共和党候補、マカドゥー民主党候補

アメリカ社会党の躍進とAFLの政策

 社会党候補大統領が当選した背景にはアメリカ二大労働組合組織のAFL(アメリカ労働総同盟)IWW(世界産業労働組合)の対立とIWWの躍進、アメリカ社会党の党内統一と躍進が要因である。AFLはサム・ゴンパーズ会長の下で労使協調路線を取り同一職種の熟練工で組織される職能別労働組合の組織を目指し各産業界白人資本家との協調の為に非熟練工や女性や非アングロサクソン移民労働者、有色人種等に対して白人資本家のご意向に沿い彼らの締め出しを行っていた。政治活動は行わずまた、政治的立場は明らかにせず階級闘争はせず資本主義経済を容認しその範囲内での労働者(特に熟練工)の地位向上に努めた。彼らは資本主義を是認する保守的な労働組合であった。

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サム・ゴンパーズAFL会長

IWWの労使対立路線

 対してビル・ヘイウッドをリーダーとするIWWは有色人種や女性、非熟練工、非アングロ・サクソン移民労働者、有色人種、AFLから追放された者達を受け入れ、またAFLとは異なり基本的に労使対立路線を採用し産業別労働組合の組織化を目的としていた。資本主義経済に対しては懐疑的でIWWは創設時から大戦参戦前まではゼネスト階級闘争等の直接行動(暴力、非暴力問わず)に基づく雇用主との対決姿勢であった。アメリカの大戦参戦に関してAFLは参戦支持派でIWWは参戦不支持派であった。

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ビル・ヘイウッドIWW総委員長

IWWの方針転換による支持拡大に伴う急成長

 アメリカの大戦参戦後、IWWは勢力拡大の為に主張を一転し第二インターの決定に従い参戦支持派に回り企業に対するゼネストの停止と労働再開の引換条件に労働者の権利受け入れや、兵役義務の課された組合員の兵役遂行の承認をした。参戦きっかけに急進的な組合の方針を変え労使対立路線を維持しつつ戦時には国に条件付きの協力的姿勢を取り、産業別労働組合の組織化とそれら組織による非暴力の直接行動とアメリカ社会党の支持母体として自認し政治・議会を通じた労働者の権利向上を方針に加えた。

 IWW内は方針転換を巡り多数のヘイウッドら穏健的右派と少数のフォスターら急進的左派の対立が発生し急進派は離脱しアメリカ組合主義連盟とを結成した。

一方のAFLは職能別組合の組織化と非熟練工や特定の人種や民族の締め出しに固辞し続けた為に離脱者が続出し離脱者の大半がIWWへと合流した。戦時中の約2年でIWWはAFLと双璧をなすほどに大規模な労働組合へと成長し1917年にIWWはアメリ産業別労働組合連盟(IWA)へと改名・改組した。

アメリカ社会党の両派の対立による分裂危機

 アメリカ社会党は1917年のロシア10月革命により党内がボリシェヴィキに反対するデブスら右派とボリシェヴィキを支持するワーゲンクネヒトら左派が対立し分裂の危機にあった。しかし、レーニンが暗殺され路線を巡りボリシェヴィキ内対立が発生しそれが原因で内戦に敗北したこと、ロシアにおけるボリシェヴィキ敗北がきっかけで社会主義の潮流が社会民主主義や穏健的サンディカリスムなどの穏健協調路線が主流となった事と1920年大統領選へのデブスの出馬準備などもあり、党内左派は一部離反者が出たが全体社会主義(ボリシェヴィキ)支持路線を放棄する等した両派の合意ともいえる1920年綱領を採択した。

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社会党左派指導者のアルフレッド・ワーゲンクネヒト(左)、社会党右派指導者のヴィクター・L・バーガー(右)

 大戦後の平常回帰と経済的繁栄そして公共福祉充実への切望、労働者の地位向上の高まり、IWAという巨大労組とそれらに支援されたアメリカ社会党の中西部と西部での支持基盤獲得と大統領選における中西部と西部、北部の工業が盛んな一部州と南部の農業が盛んな一部州での一般投票と選挙人投票が過半数を上回り共和党民主党に圧倒的大差で勝利した。1921年アメリカは共和党政権から社会党政権へと移った。以下は社会党の政策についてまとめた。

経済産業政策

労働者、農民と自国企業保護の観点から共和党政権からの高関税政策を引き続き継続し保護貿易政策を継続した。大戦中に欧州各国からの大量の戦債を引き受けていた為、大戦後にアメリカは世界一の金保有国となり、また、戦債返済で欧州からの資金流入と経済繁栄による所得増加公約と有限の減税政策により黄金時代と呼ばれる史上空前の好景気が到来した。

公共福祉政策

経済的繁栄で好景気となっていた背景と社会党の公共福祉政策の充実の公約により、まず退役軍人に対する福祉関連法を成立させ退役軍人への手当支給等を実施した。また、税金を財源とした公的国民皆保険制度と公的高齢者老齢年金制度、失業保険制度等が検討されるが議会の反対派等もありデブス(2期目途中で死去し副大統領ルーテンバーグに代わる)政権2期目に持ち越された。

対外政策

世界的軍縮の高まりからアメリカを含む列強各国のより大戦の原因の一つである海軍戦力の縮小が焦点となりワシントン軍縮会議が開かれた。列強各国の主力保有艦トン数に応じた縮小がなされ列強各国がワシントン海軍軍縮条約に署名した。陸軍戦力に関しては化学兵器禁止やハーグ条約の再確認程度で終わり社会党政権は世界的軍縮の声を受け入れつつもローズヴェルト政権のパワーオブバランスを継承した。

アメリカ史WW1前後編(1912年~1919年)(執筆中)

1912年~1915年 

1912年大統領選

 1912年のアメリカ大統領選では共和党内部で関税政策に関してローズヴェルトら革新派とタフトら保守派で対立状態にあった。しかし、大統領選目前という事もあり、関税政策ではタフトら保守派が妥協することで解決した。大統領選では共和党はセオドア・ローズヴェルト候補が出馬、対して民主党ウッドロウ・ウィルソン候補が出馬しその結果、共和党ローズヴェルト候補が圧倒的大差で大統領選に勝利した。

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ローズヴェルト共和党候補(左)、ウィルソン民主党候補(右)





1913年にローズヴェルト大統領就任と政策

ローズヴェルトが大統領に就任すると革新主義思想に基づき以下の諸改革を実行を試みた。

社会分野における改革案

この内、国民福祉サービスと社会的保険制度、農民救済政策、労災補償、女性への最低賃金適用、8時間労働法制化は次社会党政権まで持ち越されることになる。

政治分野における改革案

州政分野における改革案

  • 国民解職(市民は任期満了前に選出された役人を解任することができる
  • 国民投票(市民は一般投票によって法律を決定することができる)
  • イニシアチブ(市民は請願によって法律を提案し、一般投票によってそれを制定することができる
  • 司法の想起(裁判所が違憲法を宣言した場合、市民は国民投票によってその判決を無効にすることができる)

 ローズヴェルト大統領は革新主義的改革である新国民主義を掲げ連邦政府による巨大資本の統制と国民福祉の充実そしてマハンの海上権力史論に心酔し海軍を中心とした軍備拡張を志向した。

 1914年にWW1が始まるとローズヴェルトは協商国側への支援を表明する。1915年5月7日に米国はルシタニア号事件を受けローズヴェルト大統領は同盟国側に最後通牒アメリカは正式にWW1に協商国側で参戦する。米国は1915年にWW1に協商国側で正式参戦し約1000万人からなるアメリカ遠征軍を1915年末に西部戦線に投入する。

1916年~1919年

大戦中期から末期

 戦争末期の1916年末にはアメリカ遠征軍の動員規模が1000万人超えとなり米軍が参加した西部戦線ソンムの戦いで連合軍が勝利する。ローズヴェルトは3期目を目指し1916年の大統領選に出馬し勝利し史上初の3期目を務める大統領となる。1916年末に同盟国側が休戦を申し入れ連合国が受け入れた為に休戦協定が成立した。

パリ講和会議

 1917年4月のパリ講和会議ではアメリカは対連合国債権の減額と同時に旧同盟国の賠償額の減額に同意した。ローズヴェルト大統領は欧州の勢力均衡を基本とした大戦前の国際秩序維持を望んだ。講和会議でイニシアチブを取りアメリカは賠償に関しては損害の補償にのみに限定することを提唱しイギリスも巨額の賠償を含む懲罰的措置は再び戦争を到来させる恐れを鑑みこれに同意する。フランスは懲罰的賠償と措置に固辞し続けたが最終的に妥協し賠償問題は解決された。領土問題に関してはアルザス=ロレーヌ地域の5年間国際管理地域とし5年後に帰属先を問う住民投票を実施する。

世界概史【戦間期編②1930年~1939年】

1930年~1939年

 1929年のウォール街での株価の大暴落の一報から始まり瞬く間に世界中に波及し世界恐慌が到来した。列強諸国は不況にあえぎ、人類史上最悪の経済恐慌と呼ばれた。各国はケインズ経済学に基づいた財政政策や金本位制度の離脱などが相次いだ。

 フランス、イタリア、ロシアでは左右問わずの全体主義的思想が流行り、フランス・イタリアは国家組合主義思想を掲げた政党が台頭しイタリアでは30年代に政権獲得後に独裁政権確立、フランスでは国家組合主義政党と軍が中心となってクーデターを実行し独裁政権が樹立した。ロシアでは主にドイツや東欧諸国で流行った国家社会主義思想に基づいた政党が台頭し30年代に政権の座に就き独裁政権を確立した。

 日本は高橋蔵相による采配により不況は乗り越えたものの、地方の農村では依然として不況の悪影響をうけ子の身売りや女性の身売り、満州へ開拓団として渡満する者などがいた。農村の惨状を目の当たりにした軍の若手将校が北一輝国家社会主義論の影響を受け維新派と呼ばれる軍のグループが結成された。彼らは30年代中頃に政財軍の首脳部要人の暗殺実行と共にクーデターを決行するが、天皇陛下に叛乱軍とされた為、3日ほどで鎮圧される。首謀者は全員裁判の後に死刑判決が下り死刑執行される。