列強興亡史 -great powers history-

仮想戦記「列強興亡史」の公式ブログです。

ロシア史戦間期編①(1920年~1924年)(執筆中)

内戦終結後のロシア(1920~24年)

ロシア内戦後の内政

 1920年3月モスクワ陥落後にケレンスキー首班のロシア臨時政府は臨時首都として再びペテルブルグに舞い戻った。ボリシェヴィキにより解散させられた憲法制定会議を復活させ旧ドゥーマで活動していた立憲民主党(カデット)、進歩党(トルドヴィキ)、社会革命党(エスエル)、中央党、十月党(オクチャブリスト)が会議に集結した。会議で急務とされた課題は国家再建、民主的政治制度に基づく国家統治体制の確立、農民及び労働者の生活立て直しの主にこの三つである。

憲法制定と民主的政治制度の確立

 憲制会議での約6カ月の討議の末に1920年9月にロシア共和国憲法が制定・公布された。憲法では国号をロシア共和国と定め、立法府、行政府、司法府の三権分立に基づく政治制度であるとした。国家元首は大統領、行政府長は首相、立法府長は下院の国民院議長と上院の元老院議長、司法府は共和国最高裁判所長官と定めた。

 立法府に関して下院議員は定数450議席任期4年の比例代表制に基づく国民投票によって選出される。上院議員は定数180議席任期6年であり上院議員選出は90議席は各州議会から非公選に基づく選出、残り90議席は旧帝国時代の貴族称号を有する者及び高額納税者から選出される。また立法府は条約批准権、国民院からの立法権を有する。

 行政府長の首相は国民院議員の総意に基づき選出される。国家元首たる大統領は国民投票による直接選挙で選挙権を持つ総人口の過半数を得て選出される。行政府長の首相は内政に関する行政権と議会招集・解散権及び国務大臣指名権を有し、国家元首の大統領は任期5年で内閣の外務大臣との協議に基づき国家を代表して外国との交渉と協定・条約締結等の外交権、有事の際は国軍最高指揮権を有し内閣の国防大臣及び陸海軍最高幕僚、内閣首相との協議に基づき相手国への宣戦布告及び休戦・講和交渉権を有すると明記された。

第1回国民院議員選挙及び第1回大統領選挙と元老院議員選出

 国民院選挙では社会革命党が圧倒的過半数を獲得し首相指名ではヴィクトル・チェルノフが初代首相に任命された。そして大統領選挙ではアレクサンドル・ケレンスキーが初代大統領に選出された。元老院選出では民選枠で社会党革命党が圧倒的過半数を獲得した。

f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220319225512j:plain
f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220310172941j:plain
(左から)チェルノフ初代首相、ケレンスキー初代大統領
ロシア政党再編運動

1920年10月ロシア初の大統領及び国民院の民主選挙前で政党再編再定義運動が起こりトルドヴィキが社会革命党に復党し、10月党は進歩党及び他保守政党は統合し保守人民党を結成した。社会民主主義を掲げ労働者・農民階級の支持層を持つ社会革命党、自由主義的立場を主張し中間層含めた幅広い支持層を持つ立憲民主党、保守的立場を主張し貴族・地主・資本家階級の支持層に持つ保守人民党等の主にこの三大政党によって議会政治が行われた。選挙後に少数ではあるが元メンシェヴィキで構成された全体社会主義ロシア共産党、ドイツのシュトラッサー兄弟が提唱する国家社会主義思想に影響を受け結成された全ロシア国家社会主義労農党が政治活動を始めた。

ロシア経済

 1921年のロシア内戦終結後のロシアは国土は荒廃し焦土に近い状態であり、労働者と農民は食料不足と失業に悩まされていた。チェルノフ首相は早速これらの問題を解決すべく行動を始めた。英米仏独からの外国資本の呼び込み及び旧同盟国からの賠償金などで被害を受けた工場や鉄道施設の再建を行った。この政策により20年代半ばにロシアは国土復興が進み生産能力は大戦前の水準に回復した。農業政策では農産物不足を外国からの食糧及び農産物無償輸入で賄い、また政府は地主農民救済政策を実施しこれにより農産物の安定的供給を取り戻し食料不足は解消した。

ロシア外交

 ケレンスキー大統領は1921年2月に内戦終結後にベルリン協定を締結した関係各国と戦後処理の為にブレスト=リトフスクにて集結し会議を実施した。ロシア共和国、旧ロシア帝国支配地域民族独立勢力、英米独仏伊日の列強諸国は1921年4月にブレスト=リトフスク条約に署名した。条約内容は以下の通りである。

  1. 本条約はベルリン協定を発展的にした条約である事
  2. ロシア共和国は旧ロシア帝国の後継国家である事を本条約締結国は認める事
  3. ロシア共和国は旧ロシア帝国が締結した各種の協定・協約・条約を遵守する事
  4. ロシア共和国は旧ロシア帝国が列強諸国に負っていた債務返済を履行する事
  5. ロシア共和国は旧支配地域の独立国家であるポーランドベラルーシウクライナリトアニアリヴォニアフィンランドジョージアアゼルバイジャンアルメニアカザフスタントルキスタン、ブハラを独立国家として承認し国交関係を樹立させる事とこれらの国が定めた国境線を認める事
  6. WW1後に旧同盟国から獲得した領土であるボスポラス海峡及びダーダネルス海峡の放棄と両海峡地域の国際連盟による国際管理地域を認める事、小アジア東部のアルメニアへの継承と承認、北樺太の日本への割譲

ロシア共和国はブレスト=リトフスク条約を署名締結し議会で批准を経て承認され、こうしてロシアは戦後処理問題を解決した。ケレンスキー大統領は国際協調路線を打ち出し内戦によって棚上げにされていた国際連盟に加盟した。

ロシア史内戦編③(1917年~1920年)(執筆中)

1919年1月~1919年12月

臨時政府・白軍側動向

ヨーロッパロシアの第二次攻勢作戦

 1919年4月に北西軍、南部軍、西部の列強民族派連合軍は一斉に第二次攻勢作戦を開始した。北西軍は南進し1919年7月には赤軍をペテルブルクまで追い込み完全に包囲殲滅した。南部軍はドニエプル川を越えて進撃しコーカサスから進軍してきた南ロシアの列強軍と共同で1919年4月から10月にかけてウクライナ東部の主要都市とツァリツィーンを制圧した。

 西部連合軍は北西部のクールラント、リヴォニアにて赤軍と戦闘に勝利し1919年8月にこれら全土を制圧した。バルト三国地域を占領した西部連合軍は北西軍と共同しペテルブルグを完全包囲した後赤軍を掃討した。

シベリア軍の第二次攻勢作戦

 1919年2月に日米軍から支援されたコルチャーク提督総司令の白軍がオムスクに到達した。1919年4月にシベリア連合軍は中央アジアとウラル地方に向かう軍団に二手に分かれた。ウラルではシベリア鉄道に沿って進軍をし時々赤軍との戦闘に遭遇したがこれを全て撃退しウラル地域を超えて1919年10月にヨーロッパロシアに到達した。一方の中央アジアの軍団は中央アジアの独立勢力とイランから進軍してきたイギリス軍と共同で赤軍勢力を一掃し1919年8月には完全制圧を果たした。

ボリシェヴィキ赤軍側動向

ヨーロッパロシアの赤軍

 北西部とバルト三国を失いさらには仮首都ペテルブルグが陥落し劣勢に追い込まれた赤軍ボリシェヴィキは首都機能及び赤軍の拠点をモスクワに移動した。レーニン暗殺後のボリシェヴィキ内部の内紛、そして戦時共産主義に基づいて秘密警察チェーカーが農民からの穀物強制徴発や過激な反革命運動の摘発で当初ボリシェヴィキに支持していた農民・労働者から反発を呼び遂にボリシェヴィキ支配地域で反乱が頻発するようになった。その上、ヨーロッパロシアにおける赤軍の各地の主要な戦いの敗北でボリシェヴィキ赤軍する事が確定的である事は明白であった。

f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220319194854j:plain

モスクワに白軍が迫る中で徹底抗戦の呼びかけの演説するトロツキー
シベリア・中央アジア赤軍

 1919年4月に日米軍に支援されたコルチャーク提督のシベリア軍の一部が中央アジアに北部から侵攻しイラン及びアフガンからイギリス軍が南部から侵攻しさらに中央アジアの独立勢力軍が蜂起した事で中央アジアボリシェヴィキは各地で敗戦を重ねた。そして1919年8月に中央アジアボリシェヴィキ赤軍は掃討された。

1920年1月~1920年3月

ロシア内戦の終結

臨時政府・白軍側の第三次攻勢作戦とボリシェヴィキ壊滅

 白軍は列強軍及び民族独立軍の協力により極東部、シベリア全域、中央アジアボリシェヴィキ赤軍に完全掃討に成功した。1920年1月に白軍列強連合軍による第三次攻勢作戦が開始されヨーロッパロシアの東部からシベリア白軍がウラル地方から軍勢が迫り、ヨーロッパロシア西部及び南部からは北西部南部白軍及び英米仏独伊連合軍が迫りつつあった。そして1920年3月にモスクワが陥落とボリシェヴィキ赤軍の全面降伏によりロシア内戦は終結した。

ロシア史内戦編②(1917年~1920年)(執筆中)

ロシア内戦1918年4月~1918年12月

臨時政府・白軍側動向

ヨーロッパロシア地域の第一次反攻作戦

 ユデーニチ将軍率いる北西軍は1918年4月にムルマンスク、アルハンゲリスクに上陸した英米仏軍は白軍北西軍と合流しフィンランドと共に1918年7月にヨーロッパロシアの北西部の赤軍の拠点を制圧し占領した。

 ヨーロッパロシア西部では赤軍が1918年4月にヴィリニュス、ブレスト等の主要都市を制圧しワルシャワから数キロ手前まで迫った。しかし、列強の参戦により1918年4月から7月にかけてドイツ・民族独立連合軍が反攻作戦を行い1918年8月に赤軍ヴィスワ川以東まで後退した。

 1918年4月ヨーロッパロシアの南部ではウクライナオデッサ、クリミア、南ロシアのバトゥミ、ノヴォロシスクに英仏伊軍が上陸しウクライナ地域と南ロシア地域でデニーキン将軍率いる南部軍及びベッサラビア奪還の為に進軍してきたルーマニア軍と合流した。1918年4月まで赤軍ドニエプル川を越えウクライナ地域の2/3を占領していた。ウクライナ方面ではクリミア、オデッサから白軍列強民族独立連合軍が反撃し1918年4月から8月にかけてウクライナ地域の赤軍との戦闘に勝利し赤軍は1918年10月にはドニエプル川以東まで後退した。南ロシアでは1918年4月にバトゥミとノヴォロシスクに上陸した英仏伊軍は白軍及びコーカサス諸国軍と合流し1918年4月から10月にかけて南ロシアの赤軍との戦闘に勝ち赤軍は1918年10月にドン川及びヴォルガ川以北とツァリツィーンまで撃退した。

f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220315172352j:plain

白軍南部軍最高幕僚達
ウラル山脈以東・シベリア・極東の第一攻勢作戦

 1918年5月に日米連合軍がウラジオストクに上陸した。また、関東軍満州鉄道沿線に沿って進軍を開始し別働の日本軍師団が北樺太を占領し対岸のニコラエフスクに進軍・占領した。ウラジオストクに上陸した列強軍はウスリー江に沿ってハバロフスクへ北進しまたニコラエフスクを占領した日本軍師団がハバロフスクに向かって南進しハバロフスク赤軍を1918年8月に殲滅した後に合流した。

 一方の関東軍は1918年5月から10月にかけて奉天長春チチハルを占領し1918年10月から翌1919年1月までにチチハルから関東軍満州北西部の満州里、北東部の璦琿の二方面に進軍し占領した。1918年8月にハバロフスクで合流した列強軍はアムール川に沿ってブラゴベシチェンスクへ進軍・占領し璦琿から進軍してきた関東軍と合流しゼヤにて赤軍と戦闘となり撃退した。

 一方1919年1月に満州里を占領した関東軍はチタへ進軍しアムール川に沿ってネルチンスクとストチェンスクを占領・進軍してきた列強軍と1919年3月に合流した。列強軍はオムスク拠点の白軍のコルチャーク提督総司令シベリア軍と合流する為に1919年5月にイルクーツクにて赤軍と戦闘後勝利し占領した後にシベリア鉄道に沿って西進した。こうして極東部全域とシベリア東部からボリシェヴィキ勢力を追い出し完全制圧に成功した。

f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220315172728j:plain

白軍兵士に勲章授与するコルチャーク提督

ボリシェヴィキ赤軍

 1917年11月から1918年3月にかけてヨーロッパロシア、南ロシア、中央アジア北部とシベリア・極東地域までの主要都市とシベリア鉄道沿線を占領し一時は臨時政府を凌ぐ勢いで全土制圧寸前であった。しかし、列強の干渉と民族独立勢力と臨時政府の協力が明記されたベルリン条約締結により1918年4月からボリシェヴィキ赤軍は劣勢の状況に追い込まれ始めた。さらにそこに追い打ちをかけるように1918年8月にレーニンが暗殺された。1918年9月初頭にボリシェヴィキの指導者選出投票によりトロツキーボリシェヴィキ代表として就任した。しかし、トロツキーら指導部の指導方針と思想を巡りジュガシビリ派と対立が生じ始めた。やがてこの対立は深刻な事態へと発展し遂にトロツキー派を一掃しようとジュガシビリ派はトロツキー指導部らの拘束とボリシェヴィキ乗っ取りを計画した。そして1918年11月に乗っ取り計画を実行した。しかし綿密とは言えない計画と肝心なトロツキーとその指導部の拘束は出来ずに計画は失敗に終わった。後にこの事実を知ったトロツキーは怒り狂いジュガシビリとその一味は反乱の罪で銃殺刑に処された。

f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220315165841j:plain

(左から)ジュガシビリ、レーニントロツキー
ヨーロッパロシア及びシベリア・中央アジア・極東部の赤軍

 北西部からの列強・白軍・民族派連合軍との戦闘の敗北、西部でのドイツ・民族派連合軍との戦闘の敗北、ウクライナ地域と南ロシア地域での列強・ルーマニア・白軍・民族派連合軍との戦闘の敗北で赤軍は1919年初頭ではダウガス川以北とドニエプル川以東まで後退し等各戦線での劣勢が目立ち始めた。

 またボリシェヴィキ内部ではレーニン暗殺によるカリスマ指導者の喪失、トロツキー派とジュガシビリ派の対立と11月事件の発生とボリシェヴィキ内部は弱体化が進みさらに追い打ちをかけるようにボリシェヴィキに幻滅し赤軍から離脱する将兵が続出し始めた。

 シベリア・極東部でも同様に赤軍は日米白軍連合軍の圧倒的兵力の前に敗北を重ね極東部での支配を放棄し1919年初頭にはシベリア西部まで後退した。

ロシア史内戦編①(1917年~1920年)(執筆中)

ロシア内戦

1917年11月~1918年4月

 1917年11月に密かに帰国していたレーニンボリシェヴィキを率いて武装蜂起を起こし臨時政府主要庁舎を制圧し憲法制定会議を強制解散させソビエトを結成する十月革命(ロシア暦)が起きた。これに反発した旧ロシア帝国将兵、共和主義者、保守派、自由主義者、王党派、反ボリシェヴィキ社会主義者らによる反革命運動そして旧ロシア帝国の支配を受けていた各民族の蜂起が起こりついにロシア内戦が勃発した。本格的戦闘は翌1918年に始まった。

f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220310183428j:plain
f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220310175713j:plain
(左から)演説するレーニン十月革命前後の冬宮殿の様子

1918年

臨時政府・白軍側動向

 臨時政府・白軍側はクリミアを拠点とするウクライナ・クリミア・ロシア南部はデニーキン将軍指揮下の南部軍が、アルハンゲリスクを拠点とするロシア北西部ではユデーニチ将軍指揮下の北西軍が、オムスクを拠点とするウラル山脈以東・シベリア・極東部はコルチャーク提督指揮下のオムスク軍が赤軍の進軍を迎撃した。

f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220310172941j:plain
f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220310175131p:plain
f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220310172552j:plain
f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220310172532j:plain
(左から)ロシア臨時政府首班ケレンスキー、南部軍総司令デニーキン将軍
北西軍総司令ユデーニチ将軍、シベリア軍総司令コルチャーク提督

 また英米仏独伊日の列強諸国は臨時政府・白軍支援の派兵を決定した。1918年1月に英米仏軍がアルハンゲリスク、ペテルブルグ、オデッサ、クリミアに上陸し南部軍と北西軍に合流・加勢した。一方、独軍はバルト諸国地域、白ロシアウクライナ方面に東へ進軍した。一方のロシア極東部では日米両軍が上陸しハバロフスクからアムール川に沿って進軍しオムスク軍に合流・加勢した。またイギリスは中央アジアの白軍・民族勢力にインド、アフガンを通じて支援・派兵を行った。

f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220310180339j:plain
f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220310180335j:plain
f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220310180517p:plain
f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220310180247j:plain
(左から)ウラジオストクで行軍するアメリカ軍、ウラジオストクで行軍する日本軍、コーカサスの町で行軍するイギリス軍のインド兵、シベリアで活動するイギリス軍のカナダ兵

 ロシア内戦が本格的に激しくなる1918年2月に旧ロシア帝国に支配されていたヨーロッパロシアのポーランドリトアニア、クールラント、リヴォニアベラルーシウクライナフィンランドコーカサス地方ジョージアアゼルバイジャンアルメニア中央アジアのアラシュ、トルキスタン、ブハラ、ヒヴァ、ザカスピが独立宣言した。

 1918年3月に臨時政府・白軍代表、独立民族各代表、英米仏独伊日の各列強代表がベルリンに集結しボリシェヴィキ掃討後の戦後のロシアについて会議が行われた。当初ロシア臨時政府及び白軍側代表は各民族の独立に反対姿勢であった。しかし、臨時政府側が各民族の独立を認めて共同でボリシェヴィキ勢力に立ち向かう事が出来なければ白軍が劣勢となる事で臨時政府が崩壊しソビエト政権が誕生するのは明白であった。

 ロシアが英米仏に対して負っている債務返済の不履行を恐れた特に列強の英米仏代表は更なる列強諸国の軍増派と引換えに臨時政府側に各民族の独立承認し共同でボリシェヴィキ掃討に協力する妥協案を提示した。数日間の交渉の末、ロシア臨時政府側はこの妥協案を受諾した。これにより1918年にロシア臨時政府・列強諸国・各民族独立勢力間で上記妥協案に合意するベルリン協定が締結された。これによりロシア臨時政府・白軍は列強諸国と民族勢力という大きな後ろ盾を得た事で形勢が臨時政府に有利に傾き始める。

f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220310171703j:plain

ベルリン協定署名の様子
ボリシェヴィキ赤軍側動向

 赤軍ボリシェヴィキ側は10月革命以後、前年の1917年からロシアの鉄道沿線と工業地域を制圧しヨーロッパロシアの主要都市及びシベリアの主要部を占領し白軍を凌ぐ勢いであった。目覚ましい進軍の背景にはボリシェヴィキトロツキーが創設した赤軍は鉄の規律と統率力の強靭な赤軍の存在があり、彼ら無くしてボリシェヴィキの存在は無いと言って等しい。また、チェーカーと呼ばれるジェルジンスキー率いる秘密警察がボリシェヴィキにより組織され反革命の取り締まり及び反革命行為を働いた者の処刑等で恐怖支配の体制を構築した。

 しかし1918年4月に列強諸国・独立勢力・ロシア臨時政府間でベルリン条約が締結された事で列強諸国の本格介入する事が決定しまた臨時政府と独立勢力が協力してボリシェヴィキ掃討を交わした事でボリシェヴィキは日を追うごとに劣勢の状況に追い込まれる事になる。1918年8月にボリシェヴィキに反感を持つ社会革命党党員のファーニャ・カプランがレーニンを暗殺した。これはボリシェヴィキ内に衝撃と動揺が駆け巡った。

f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220310182827j:plain
f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220310182816j:plain
(左から)レーニン暗殺を描いた絵画、レーニン暗殺犯のファーニャ・カプラン

レーニン暗殺後にボリシェヴィキの選挙投票によりトロツキーボリシェヴィキ最高指導者となった。しかし、トロツキーの思想や路線に反発し批判する主にジュガシビリらとの深刻な内部対立が発生した。そのこともありレーニン暗殺後ボリシェヴィキは混乱状態となりまたロシア各地で赤軍の敗北が相次いだ。

ロシア史WW1編(1914年~1917年)(執筆中)

1914年~1917年(大戦期)

第一次世界大戦参戦

 ロシア帝国は1914年にWW1が勃発すると連合国側で参戦した。それに伴い東部戦線が形成されドイツ帝国軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍と戦闘が始まった。コーカサス地方ではオスマン帝国軍と戦闘となりコーカサス戦線が形成された。しかし、東部戦線とコーカサス戦線では両軍共に一進一退となり膠着状態が続いた。しかし、1915年にアメリカが連合国側で参戦した事で形勢が連合国側に有利に傾き、1916年の連合国攻勢にて東部戦線ではプルシーロフ攻勢にてロシア帝国軍が勝利した。そして1916年末に連合国と同盟国との休戦協定成立した。

f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220309233345j:plain

東部戦線の英雄プルシーロフ将軍

1917年の講和会議と2月革命(ロシア暦)

 翌1917年3月に連合国対同盟国の講和会議が始まった。しかし、会議の途中にロシア帝国二月革命(ロシア暦)が起きロシア皇帝ニコライ二世が退位しケレンスキー首班のロシア共和国臨時政府が樹立された。講和会議ではロシアはロシア帝国の後継国家であるロシア共和国政府と改めて会議に参加した。そして1917年6月に連合国対各同盟国講和条約が締結された。これによりロシアは戦前に連合国間で交わされた協定通り広大な領土を獲得した。以下はロシアが獲得した領土及び権益である。

連合国対ドイツ帝国講和条約(ヴェルサイユ条約)
  1. ドイツ帝国からロシアへの賠償金支払い
  2. 1914年以前の独露国境線の維持
連合国対墺洪帝国講和条約(サンジェルマン条約)
  1. ガリチアロドメリア地域のロシアへの割譲
  2. 墺洪帝国からロシアへの賠償金支払い
連合国対オスマン帝国講和条約(セーブル条約)
  1. 小アジア東部及びボスポラスとダーダネルスの両海峡のロシアへの割譲
  2. 治外法権の維持と国家財政の英仏伊露による管理
  3. トルコ・スルタン国からロシアへの賠償金支払い

 講和会議中に二月革命(ロシア暦)による皇帝退位から解るようにロシア共和国は政情不安が続いていた。だが上記の領土及び権益の獲得により政情不安であったロシアは国威発揚により一時的な政治的安定が訪れた。しかし、皇帝退位後も依然農村部では旧態依然で貧農は食料不足に悩み、都市部の労働者は食料品や生活必需品の物資不足に悩まされた。こういった背景もありゼネストや農民反乱が相次ぎこれに賛同するロシア共和国軍の兵士が軍から離反し始めた。これが後のロシア内戦への遠因となった。

 そしてついに1917年11月に十月革命(ロシア暦)は勃発し密かに帰国していたレーニン率いるボリシェヴィキが臨時政府主要庁舎を制圧し憲法制定会議を解散させた。これに反発した旧ロシア帝国軍将校らによる反革命運動が起こりついにロシア内戦が勃発した。

ドイツ史戦間期編③(1930年~1934年)(執筆中)

1930年~1934年

1928年代議院選挙

 国家人民党、中央党、国民党の保守政党過半数議席を獲得した。それに伴い社民党過半数以下まで議席を減らした。これにより国家人民党の保守政権が誕生し首相指名では国家人民党のヴェスタープが第三代首相となった。

f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220305203010j:plain

ヴェスタープ第三代首相

ヴェスタープ政権の政策

経済産業政策

 保守政権はユンカーや実業家、産業界の資本家の支持層となっていた為に法人税減税、株式で得る資本所得に対する減税、自由放任に基づく市場経済への不介入等資本家優遇政策を実施した。

世界恐慌の到来

 1929年の世界恐慌の到来した。米国が国際貿易の維持と促進を図った為にドイツの輸出入産業は持ちこたえた。しかし、保守政権は積極的な財政・経済介入政策を実施しなかったので国内産業での企業倒産や失業者が増大し1932年までに失業率は約25%までに達した。これは野党及び国民からの批判と反発を呼んだ。

1932年代議院選挙及び参議院議員選出

 保守政権の世界恐慌への無為無策により保守第一党の国家人民党はかなりの議席を減らした。その一方で中央党及び国民党は議席を維持し社民党議席を取り戻した。しかし、社民党単独で過半数議席獲得までに至らず社民党は中央党及び国民党との連立を打診し中央党が首班指名されることを条件に社・中・国連立政権が誕生した。首班指名では中央党のパーペンが第四代首相となった。

 一方参議院議員選出では地方議会での社民党再躍進により社民党議員の多数選出され過半数を獲得し国家人民党は多くの議席を失った。

f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220305210854j:plain

フランツ・フォン・パーペン第4代首相

パーペン内閣(1932~1936)の政策

 産業経済政策

 1932年内閣発足後早速、世界恐慌によるドイツ経済の不況により賠償支払が困難である為に英米独仏四蔵相ら賠償委員会での会談にて前政権が行っていたドイツ経済の不況が解消されるまでの支払猶予の無期限延長を賠償委員会の総意の元改めて決定した。貿易政策ではアメリカが国際貿易の維持と促進していた事で輸出入産業は恐慌に持ちこたえた。しかし1933年に米国が共和党政権へと変わり高関税政策に切り替えブロック化を実施した為に列強各国は高関税とブロック経済圏を構築した。ドイツ国内経済は経済不況と失業者問題に直面したパーペン内閣では他列強と同様に金本位から離脱し植民地と本国及びオーストリアとの間でマルク経済圏を構築し経済圏内での貿易促進を図った。その上で国内経済立て直しの為に公共事業の推進と政府による雇用拡大、財政出動などの政策を実施した。これにより失業率は低下し1936年には大戦前の水準までに戻った。一方で高関税に基づくマルク経済圏は維持され植民地と本土の経済的結びつきが強化された。

外交政策

 1934年2月6日、隣国フランスで右翼団体・政党と軍が結託してクーデターを実行し憲法と議会を停止し独裁政権が誕生した。この二月政変によりヨーロッパに緊張状態が訪れた。緊張緩和の為にパーペン政権はフランスの新政権を承認しドイツ外相を派遣した。フランス新政権側は政変は国内問題であり国外へ敵意を向ける行動ではないとドイツ外相に会談の席上そう伝えた。

国防政策

 隣国フランスの政変によりドイツ国内では左右問わず政党間では危機感を抱き始め、参謀本部及び軍上層部とパーペン政権は国防予算の増額とヒンデンブルク線の早期建設完了の促進を政軍会議において決定した。立法府も国防予算増額を承認し軍縮路線を転換し軍備拡張路線へとシフトした。

ドイツ史戦間期編②(1925年~1929年)(執筆中)

1925年~1929年

1920年1924年までのエーベルト政権

 エーベルト政権(1920~24)ではインフレ解消や賠償支払問題で英米独仏四蔵相会談で賠償委員会設立と米国のドイツへの資本投下によりドイツ経済は好景気となり旧連合国への賠償支払が履行が促進し賠償得た旧連合国が米国への戦債支払いに充てられるという好循環により欧州及び米国と世界は経済好況が訪れた。ドイツ国民は経済的繁栄を享受した。その一方で累進課税強化と社民党政権は海軍軍縮条約署名と軍縮政策を実施したことで保守派及び実業界から批判を呼んだ。 

1924年代議院選挙及び1926年参議院議員選出

 1924年代議院選挙では国家人民党、中央党の保守政党が躍進し議席を伸ばした。社会民主党は以前より議席を減らしたが他リベラル政党の国民党と提携することで過半数を維持した。首相指名では社会民主党のオットー・ヴェルスが内閣首相に指名された。

 1926年の参議院議員選出では国家人民党議員が多く選出され過半数議席を獲得し社会民主党議席を大きく減らした。

f:id:GREAT_POWERS_HISTORY:20220305162157j:plain

オットー・ヴェルス第二代首相

ヴェルス政権の政策

 経済産業政策

 1924年選挙後に産業界からの支持層のある保守政党らの議席獲得で前エーベルト政権から続けていたインフレ抑制政策の打ち切りを求める議会保守派議員の声からヴェルス首相はインフレ抑制政策を止めた。それによりアメリカの資本投下と企業の設備投資増とそれと連関して所得増加を促し購買力増加によりドイツ経済は好景気の時代となった。それに伴い旧連合国への賠償支払も遅延なく行われた。これにより英米仏独の賠償委員会で定められた資本投下による需給拡大と経済好況による遅滞ない支払の規定を盛り込んだ第一次賠償支払計画は終了し経済拡大に伴って賠償支払増額とする第二次賠償支払計画が開始された。

国防政策

 エーベルト前政権は世界的な平和運動の高まりとワシントン海軍軍縮条約署名をきっかけに過剰な軍備は緊張を生むと考えワシントン海軍軍縮条約での海軍主力艦削減に留まらず陸軍兵力及び兵器等の軍縮及び予算削減政策を行った。これに続き与党社民党ヴェルス首相は徴兵制度廃止及び更なる国防予算削減の立法を行ったが、議会で過半数を占めていた保守派議員の議会工作により否決され実現はされなかった。

 前大戦により登場した航空機、電信、戦車、空母などの新兵器の登場によりそれまでの近代戦争とは異なりそれらを活用した戦争の時代が到来した。帝国軍内部の中堅・若手将校は新兵器開発とそれらの運用と国防戦略転換と必要性を痛感していた。しかし、参謀本部及び軍上層部は守旧的思考で大戦前の近代戦争戦略に固辞していた。

 1928年にフランスが独仏国境部にマジノ線と呼ばれる等間隔の要塞線の建設が始まった。参謀本部及び軍上層部は1929年にフランスに対抗し独仏及びベルギー国境部にかけてヒンデンブルク線と呼ばれる等間隔の要塞建設を始めた。当初は長城のような要塞線が計画されたが予算の都合と攻勢を主眼に置いた国防戦略であった。この要塞線構築により国防予算が圧迫され兵器開発が停滞する事になる。

外交政策

 エーベルト政権からの国際協調路線を引き続き継続し1926年にイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ベルギー間でロカルノ条約が締結した。左記の5ヶ国における地域的集団安全保障条約である。この条約は10条からなり、ヴェルサイユ条約の定めたドイツ・フランス国境及びドイツ・ベルギー国境の現状維持、ラインラント及び独仏国境地帯、仏ベルギー国境地帯における軍隊駐留の禁止、ドイツ・フランス・ベルギーの相互不可侵、国際紛争の平和的解決、そしてこれらに対するイギリス、イタリアの保障などを規定するものである。