列強興亡史 -great powers history-

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ロシア史内戦編①(1917年~1920年)(執筆中)

ロシア内戦

1917年11月~1918年4月

 1917年11月に密かに帰国していたレーニンボリシェヴィキを率いて武装蜂起を起こし臨時政府主要庁舎を制圧し憲法制定会議を強制解散させソビエトを結成する十月革命(ロシア暦)が起きた。これに反発した旧ロシア帝国将兵、共和主義者、保守派、自由主義者、王党派、反ボリシェヴィキ社会主義者らによる反革命運動そして旧ロシア帝国の支配を受けていた各民族の蜂起が起こりついにロシア内戦が勃発した。本格的戦闘は翌1918年に始まった。

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(左から)演説するレーニン十月革命前後の冬宮殿の様子

1918年

臨時政府・白軍側動向

 臨時政府・白軍側はクリミアを拠点とするウクライナ・クリミア・ロシア南部はデニーキン将軍指揮下の南部軍が、アルハンゲリスクを拠点とするロシア北西部ではユデーニチ将軍指揮下の北西軍が、オムスクを拠点とするウラル山脈以東・シベリア・極東部はコルチャーク提督指揮下のオムスク軍が赤軍の進軍を迎撃した。

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(左から)ロシア臨時政府首班ケレンスキー、南部軍総司令デニーキン将軍
北西軍総司令ユデーニチ将軍、シベリア軍総司令コルチャーク提督

 また英米仏独伊日の列強諸国は臨時政府・白軍支援の派兵を決定した。1918年1月に英米仏軍がアルハンゲリスク、ペテルブルグ、オデッサ、クリミアに上陸し南部軍と北西軍に合流・加勢した。一方、独軍はバルト諸国地域、白ロシアウクライナ方面に東へ進軍した。一方のロシア極東部では日米両軍が上陸しハバロフスクからアムール川に沿って進軍しオムスク軍に合流・加勢した。またイギリスは中央アジアの白軍・民族勢力にインド、アフガンを通じて支援・派兵を行った。

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(左から)ウラジオストクで行軍するアメリカ軍、ウラジオストクで行軍する日本軍、コーカサスの町で行軍するイギリス軍のインド兵、シベリアで活動するイギリス軍のカナダ兵

 ロシア内戦が本格的に激しくなる1918年2月に旧ロシア帝国に支配されていたヨーロッパロシアのポーランドリトアニア、クールラント、リヴォニアベラルーシウクライナフィンランドコーカサス地方ジョージアアゼルバイジャンアルメニア中央アジアのアラシュ、トルキスタン、ブハラ、ヒヴァ、ザカスピが独立宣言した。

 1918年3月に臨時政府・白軍代表、独立民族各代表、英米仏独伊日の各列強代表がベルリンに集結しボリシェヴィキ掃討後の戦後のロシアについて会議が行われた。当初ロシア臨時政府及び白軍側代表は各民族の独立に反対姿勢であった。しかし、臨時政府側が各民族の独立を認めて共同でボリシェヴィキ勢力に立ち向かう事が出来なければ白軍が劣勢となる事で臨時政府が崩壊しソビエト政権が誕生するのは明白であった。

 ロシアが英米仏に対して負っている債務返済の不履行を恐れた特に列強の英米仏代表は更なる列強諸国の軍増派と引換えに臨時政府側に各民族の独立承認し共同でボリシェヴィキ掃討に協力する妥協案を提示した。数日間の交渉の末、ロシア臨時政府側はこの妥協案を受諾した。これにより1918年にロシア臨時政府・列強諸国・各民族独立勢力間で上記妥協案に合意するベルリン協定が締結された。これによりロシア臨時政府・白軍は列強諸国と民族勢力という大きな後ろ盾を得た事で形勢が臨時政府に有利に傾き始める。

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ベルリン協定署名の様子
ボリシェヴィキ赤軍側動向

 赤軍ボリシェヴィキ側は10月革命以後、前年の1917年からロシアの鉄道沿線と工業地域を制圧しヨーロッパロシアの主要都市及びシベリアの主要部を占領し白軍を凌ぐ勢いであった。目覚ましい進軍の背景にはボリシェヴィキトロツキーが創設した赤軍は鉄の規律と統率力の強靭な赤軍の存在があり、彼ら無くしてボリシェヴィキの存在は無いと言って等しい。また、チェーカーと呼ばれるジェルジンスキー率いる秘密警察がボリシェヴィキにより組織され反革命の取り締まり及び反革命行為を働いた者の処刑等で恐怖支配の体制を構築した。

 しかし1918年4月に列強諸国・独立勢力・ロシア臨時政府間でベルリン条約が締結された事で列強諸国の本格介入する事が決定しまた臨時政府と独立勢力が協力してボリシェヴィキ掃討を交わした事でボリシェヴィキは日を追うごとに劣勢の状況に追い込まれる事になる。1918年8月にボリシェヴィキに反感を持つ社会革命党党員のファーニャ・カプランがレーニンを暗殺した。これはボリシェヴィキ内に衝撃と動揺が駆け巡った。

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(左から)レーニン暗殺を描いた絵画、レーニン暗殺犯のファーニャ・カプラン

レーニン暗殺後にボリシェヴィキの選挙投票によりトロツキーボリシェヴィキ最高指導者となった。しかし、トロツキーの思想や路線に反発し批判する主にジュガシビリらとの深刻な内部対立が発生した。そのこともありレーニン暗殺後ボリシェヴィキは混乱状態となりまたロシア各地で赤軍の敗北が相次いだ。