列強興亡史 -great powers history-

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アメリカ史戦間期編③(1930~1934年)(執筆中)

1930年~1934年

世界恐慌

 1929年10月29日木曜日、同年年9月4日頃から始まったアメリカの株価の大暴落に端を発し株式市場の暴落(通称暗黒の木曜日)で世界的ニュースになった。大恐慌は、豊かな国と貧しい国の両方に壊滅的な影響を及ぼした。個人所得、税収、利益、価格は下落しましたが、国際貿易は米国の貿易促進の自由貿易政策により30%減で収まった。米国の失業率は20%前後に上昇し、一部の国では40%にまで上昇した。世界中の都市、特に重工業に依存している都市は大きな打撃を受けた。多くの国で建設が事実上停止した。作物価格が約60%下落したため、農村と農村地域は苦しんだ。代替の雇用源がほとんどない急落する需要に直面して、鉱業や伐採などの主要産業に依存する分野が最も苦しんだ。

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1929年の暴落直後にウォール街に集まる群衆

 民主党のスミス大統領は古典派経済学の信奉者であり国内経済において自由放任政策や財政均衡政策を採った。その一方で1930年にはシャウス・デイビス法を定めて自由貿易政策を採り、世界各国の恐慌の安定化を図った。1931年、クレディタンシュタルトの倒産を受けて6月からスミスモラトリアムを施行した。合衆国内の銀行は9月に305行が、10月に522行が閉鎖した。9月中旬から10月末にかけてヨーロッパへ金が流出した。

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民主党スミス大統領

民主党スミス大統領の恐慌対策

 スミス大統領は、貿易不振を世界恐慌の原因とみなし、貿易振興の観点からスミスモラトリアムを提唱し、第一次世界大戦の賠償金の支払い猶予の大統領令に署名した。一方で世界恐慌は貿易不振が原因であると考え低関税のシャウス・デイビス関税法に署名した。これは主要貿易相手国との貿易促進を図った。貿易促進により国際経済は一応安定化し始めたが依然各国は長期的不況が続いた。アメリカは国内経済対策が後回しとなった為に1932年までに失業率は20%前後に達した。

 しかし、1920年代に行った社会党社会福祉政策が功を奏して失業者の公的失業保険申請が増加し大多数の失業者は一定期間生活苦ならずに済んだ。社会党政権が設立した連邦政府管轄の再就職支援等を行う雇用促進局への利用が増加した。そのかいあってか失業率は数十%程度に低下した。しかし、予想以上に企業の倒産が相次いでいた為に再就職が難航する失業者が発生した。また、公的失業保険は時限があり失業保険が期間満了し生活貧窮に陥る者が発生した。

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大恐慌初期の取り付け騒ぎでニューヨークの銀行に殺到する群衆

1932年大統領選

 1932年大統領選では国内経済立て直しが焦点となり民主党は引き続きスミス候補、共和党はラガーディア共和党候補、社会党はトーマス候補が出馬した。大統領選は共和党のラガーディアが制した。当初この大統領選は社会党が制するだろうとの見方が強かったが20年代社会党が行った公共福祉政策の欠点と不備が恐慌によって明るみになり批判の的となった。民主党はスミス大統領の国際経済優先国内経済劣後を行った事で国民からの批判が相次いだ。その経緯もあり共和党のラガーディア候補が選ばれた。

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(左から)トーマス社会党候補、ラガーディア共和党候補、スミス民主党候補

1933年ラガーディア共和党大統領就任

 1933年に就任したラガーディア大統領は「ニューディール」政策を実施した。ラガーディアは大統領就任前のラジオでの選挙演説で「大統領に就任したら、1年以内に恐慌前の物価水準に戻す」と宣言した。ラガーディア大統領は1933年3月4日に大統領に就任すると、翌日には日曜日にもかかわらず「対敵通商法」に基づき国内の全銀行を休業させ、ラジオ演説で1週間以内に全ての銀行の経営実態を調査させ預金の安全を保障することを約束し、銀行の取り付け騒ぎは収束の方向に向かった。ラガーディアは1933年に大統領に就任後、ただちに大胆な金融緩和を行ったため信用収縮が止まっている。ノリスは次に述べる100日間の直後にボーラ・ジョンソン法を制定して、この約束を果たした(連邦預金保険公社の設立と銀証分離)。更に連邦議会に働きかけて、矢継ぎ早に景気回復や雇用確保の新政策を審議させ、最初の100日間でこれらを制定させた。

  • 緊急銀行救済法
  • TVA(テネシー川流域開発公社)などによる公共事業
  • CCC(民間資源保存局)による大規模雇用
  • 社会党政権が制定した労働時間の短縮や最低賃金の確保の継続強化
  • 連邦政府後援の農業協同組合による生産量の調整
  • ラフォレット法による労働者の権利拡大

さらに1935年には第二次ニューディールとして、失業者への手当給付・生活保護から失業者の雇用へという転換を行い、雇用促進局の事業拡大を図り失業者の大量雇用と公共施設建設や公共事業を全米に広げた。対外的には前政権の自由貿易政策を継続し、大統領権限による関税率の変更や外国と互恵通商協定を締結する権限が議会で承認された。