列強興亡史 -great powers history-

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ドイツ史戦間期編①(1920年~1924年)(執筆中)

1920年1924年

戦後のドイツ帝国の動向

 20年代のドイツは政治、経済、社会、軍事、外交の各分野の改革・変化が起きた。

政治分野

 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は1917年の講和条約締結後に大戦敗戦は自らの失政の過ちと認識しそして反省した。カイザーは国政改革が必要と考え、翌1918年にカイザー自ら国政不関与宣言を発した。カイザーと政治家はイギリス式立憲君主制の導入を志向した。関係者を交えて1年間の討議の末1919年に国政諸改革による帝国憲法改正により皇帝の政治的権限縮小と引換えに議院内閣制度を導入した。

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帝国国政改革について討議する各政党党首達

 立法府は22邦国3自由市の地方議会から選出された代表が議席(一地方2議席の計定数50議席)に就く非公選6年制参議院、各邦国と各自由市の人口比に応じた議席(定数397議席)が設けられ小選挙区制の公選4年制代議院で構成される両院制度が導入された。行政府長(内閣首相)は代議院議員らの総意に基づき選出され、各省国務大臣は首相指名により決定される。これにより君主の政治的権限を縮小し立法府と行政府の政治的権限を相対的に高め国民主権に基づく立憲君主制度が導入された。

 また、軍隊の権限についてはルーデンドルフ独裁の反省から1922年に帝国軍を立法府と行政府の統制の元に置き、軍人事権は行政府の国防大臣が、(軍中央を歴任し退役済の元軍人政治家議員が任命されるのが慣習となる)敵国への宣戦布告・休戦協定・講和条約、国防予算成立等は立法府の同意が必要であるものとし、文民統制によって軍の政治的関与を遮断した。その一方で有事の際の軍事作戦の計画及び遂行の権限は帝国軍の専任的権利であると定め、戦時の場合は状況に応じた素早い現場配置や人事転換が求められる為に行政府の軍人事権は戦時の場合にのみ帝国軍に一時的に権限が移管される仕組みとなった。立法府、行政府、参謀本部の合同会議の総意に基づいて戦争開始、交戦国との休戦及び講和交渉が行われるものとする。また、その決定権と交渉権はこの合同会議が有し必ず議会の承認に得て実行されるものとすると規定された。これによりドイツは『君臨すれども統治せず』を原則とした以前より民主的な政治体制に変革した。

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軍隊の文民統制に置く先例を作ったルーデンドルフ将軍

 1920年に第1回代議院総選挙が実施された。結果は社会民主党(SPD)が過半数以上の議席を獲得し第一党に、国家人民党(DNVP)が第二党に、中央党が第三政党となった。これに伴い社民党エーベルト政権が誕生した。しかし並行して行われた参議院代表選出選挙では僅差で社民党議席を獲得したが過半数以下が国家人民党と中央党などの保守政党議席を占めた。

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フリードリヒ・エーベルト初代首相
経済産業分野

 エーベルト政権における経済政策は大戦中から戦後しばらくは戦争経済の影響からインフレ(物価上昇)が進み国民生活に悪影響が出ていた。賠償金支払いに関して財政的負担が少なく支払いは当初問題なく履行されていた。しかし、インフレに加え戦後の戦時経済から平時経済への移行に伴う一時的不況と為替相場マルク安進行により、賠償支払いに支障が生じ始めた。賠償支払問題解決の為に英米仏独の四蔵相が会談し賠償委員会の設立と第一次支払計画が策定された。アメリカのドイツへの資本投資による経済活発化と安定を図り、ドイツの財政的余裕により対連合国賠償支払が安定的に行われ賠償を得た旧連合国の対米債務支払いの促進を図ることが決定された。また、ドイツ帝国銀行総裁が緊縮政策を実施したことでインフレが解消され賠償問題とインフレ解消によりドイツは経済的好況が到来した。

外交分野

 エーベルト政権の外交は1917年10月から始まったロシア内戦では英独仏伊米日の列強諸国の介入にてドイツ軍は列強諸国の中で2番目の大規模な軍隊を派兵して1921年にロシア内戦のロシア共和国・白軍側の勝利に貢献した。大戦後ドイツ帝国は協調外交を掲げ国際協調路線を採りワシントン海軍軍縮条約への参加と署名、国際連盟加盟など国際的枠組みへの参加によるドイツ帝国の国際的地位向上と国際的信任向上を図った。また、ドイツ帝国の外交努力と英仏独伊露の大国間均衡と協調が保たれることで欧州地域の政治的安定が訪れた。