列強興亡史 -great powers history-

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ロシア史内戦編②(1917年~1920年)(執筆中)

ロシア内戦1918年4月~1918年12月

臨時政府・白軍側動向

ヨーロッパロシア地域の第一次反攻作戦

 ユデーニチ将軍率いる北西軍は1918年4月にムルマンスク、アルハンゲリスクに上陸した英米仏軍は白軍北西軍と合流しフィンランドと共に1918年7月にヨーロッパロシアの北西部の赤軍の拠点を制圧し占領した。

 ヨーロッパロシア西部では赤軍が1918年4月にヴィリニュス、ブレスト等の主要都市を制圧しワルシャワから数キロ手前まで迫った。しかし、列強の参戦により1918年4月から7月にかけてドイツ・民族独立連合軍が反攻作戦を行い1918年8月に赤軍ヴィスワ川以東まで後退した。

 1918年4月ヨーロッパロシアの南部ではウクライナオデッサ、クリミア、南ロシアのバトゥミ、ノヴォロシスクに英仏伊軍が上陸しウクライナ地域と南ロシア地域でデニーキン将軍率いる南部軍及びベッサラビア奪還の為に進軍してきたルーマニア軍と合流した。1918年4月まで赤軍ドニエプル川を越えウクライナ地域の2/3を占領していた。ウクライナ方面ではクリミア、オデッサから白軍列強民族独立連合軍が反撃し1918年4月から8月にかけてウクライナ地域の赤軍との戦闘に勝利し赤軍は1918年10月にはドニエプル川以東まで後退した。南ロシアでは1918年4月にバトゥミとノヴォロシスクに上陸した英仏伊軍は白軍及びコーカサス諸国軍と合流し1918年4月から10月にかけて南ロシアの赤軍との戦闘に勝ち赤軍は1918年10月にドン川及びヴォルガ川以北とツァリツィーンまで撃退した。

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白軍南部軍最高幕僚達
ウラル山脈以東・シベリア・極東の第一攻勢作戦

 1918年5月に日米連合軍がウラジオストクに上陸した。また、関東軍満州鉄道沿線に沿って進軍を開始し別働の日本軍師団が北樺太を占領し対岸のニコラエフスクに進軍・占領した。ウラジオストクに上陸した列強軍はウスリー江に沿ってハバロフスクへ北進しまたニコラエフスクを占領した日本軍師団がハバロフスクに向かって南進しハバロフスク赤軍を1918年8月に殲滅した後に合流した。

 一方の関東軍は1918年5月から10月にかけて奉天長春チチハルを占領し1918年10月から翌1919年1月までにチチハルから関東軍満州北西部の満州里、北東部の璦琿の二方面に進軍し占領した。1918年8月にハバロフスクで合流した列強軍はアムール川に沿ってブラゴベシチェンスクへ進軍・占領し璦琿から進軍してきた関東軍と合流しゼヤにて赤軍と戦闘となり撃退した。

 一方1919年1月に満州里を占領した関東軍はチタへ進軍しアムール川に沿ってネルチンスクとストチェンスクを占領・進軍してきた列強軍と1919年3月に合流した。列強軍はオムスク拠点の白軍のコルチャーク提督総司令シベリア軍と合流する為に1919年5月にイルクーツクにて赤軍と戦闘後勝利し占領した後にシベリア鉄道に沿って西進した。こうして極東部全域とシベリア東部からボリシェヴィキ勢力を追い出し完全制圧に成功した。

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白軍兵士に勲章授与するコルチャーク提督

ボリシェヴィキ赤軍

 1917年11月から1918年3月にかけてヨーロッパロシア、南ロシア、中央アジア北部とシベリア・極東地域までの主要都市とシベリア鉄道沿線を占領し一時は臨時政府を凌ぐ勢いで全土制圧寸前であった。しかし、列強の干渉と民族独立勢力と臨時政府の協力が明記されたベルリン条約締結により1918年4月からボリシェヴィキ赤軍は劣勢の状況に追い込まれ始めた。さらにそこに追い打ちをかけるように1918年8月にレーニンが暗殺された。1918年9月初頭にボリシェヴィキの指導者選出投票によりトロツキーボリシェヴィキ代表として就任した。しかし、トロツキーら指導部の指導方針と思想を巡りジュガシビリ派と対立が生じ始めた。やがてこの対立は深刻な事態へと発展し遂にトロツキー派を一掃しようとジュガシビリ派はトロツキー指導部らの拘束とボリシェヴィキ乗っ取りを計画した。そして1918年11月に乗っ取り計画を実行した。しかし綿密とは言えない計画と肝心なトロツキーとその指導部の拘束は出来ずに計画は失敗に終わった。後にこの事実を知ったトロツキーは怒り狂いジュガシビリとその一味は反乱の罪で銃殺刑に処された。

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(左から)ジュガシビリ、レーニントロツキー
ヨーロッパロシア及びシベリア・中央アジア・極東部の赤軍

 北西部からの列強・白軍・民族派連合軍との戦闘の敗北、西部でのドイツ・民族派連合軍との戦闘の敗北、ウクライナ地域と南ロシア地域での列強・ルーマニア・白軍・民族派連合軍との戦闘の敗北で赤軍は1919年初頭ではダウガス川以北とドニエプル川以東まで後退し等各戦線での劣勢が目立ち始めた。

 またボリシェヴィキ内部ではレーニン暗殺によるカリスマ指導者の喪失、トロツキー派とジュガシビリ派の対立と11月事件の発生とボリシェヴィキ内部は弱体化が進みさらに追い打ちをかけるようにボリシェヴィキに幻滅し赤軍から離脱する将兵が続出し始めた。

 シベリア・極東部でも同様に赤軍は日米白軍連合軍の圧倒的兵力の前に敗北を重ね極東部での支配を放棄し1919年初頭にはシベリア西部まで後退した。