列強興亡史 -great powers history-

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ドイツ史戦間期編②(1925年~1929年)(執筆中)

1925年~1929年

1920年1924年までのエーベルト政権

 エーベルト政権(1920~24)ではインフレ解消や賠償支払問題で英米独仏四蔵相会談で賠償委員会設立と米国のドイツへの資本投下によりドイツ経済は好景気となり旧連合国への賠償支払が履行が促進し賠償得た旧連合国が米国への戦債支払いに充てられるという好循環により欧州及び米国と世界は経済好況が訪れた。ドイツ国民は経済的繁栄を享受した。その一方で累進課税強化と社民党政権は海軍軍縮条約署名と軍縮政策を実施したことで保守派及び実業界から批判を呼んだ。 

1924年代議院選挙及び1926年参議院議員選出

 1924年代議院選挙では国家人民党、中央党の保守政党が躍進し議席を伸ばした。社会民主党は以前より議席を減らしたが他リベラル政党の国民党と提携することで過半数を維持した。首相指名では社会民主党のオットー・ヴェルスが内閣首相に指名された。

 1926年の参議院議員選出では国家人民党議員が多く選出され過半数議席を獲得し社会民主党議席を大きく減らした。

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オットー・ヴェルス第二代首相

ヴェルス政権の政策

 経済産業政策

 1924年選挙後に産業界からの支持層のある保守政党らの議席獲得で前エーベルト政権から続けていたインフレ抑制政策の打ち切りを求める議会保守派議員の声からヴェルス首相はインフレ抑制政策を止めた。それによりアメリカの資本投下と企業の設備投資増とそれと連関して所得増加を促し購買力増加によりドイツ経済は好景気の時代となった。それに伴い旧連合国への賠償支払も遅延なく行われた。これにより英米仏独の賠償委員会で定められた資本投下による需給拡大と経済好況による遅滞ない支払の規定を盛り込んだ第一次賠償支払計画は終了し経済拡大に伴って賠償支払増額とする第二次賠償支払計画が開始された。

国防政策

 エーベルト前政権は世界的な平和運動の高まりとワシントン海軍軍縮条約署名をきっかけに過剰な軍備は緊張を生むと考えワシントン海軍軍縮条約での海軍主力艦削減に留まらず陸軍兵力及び兵器等の軍縮及び予算削減政策を行った。これに続き与党社民党ヴェルス首相は徴兵制度廃止及び更なる国防予算削減の立法を行ったが、議会で過半数を占めていた保守派議員の議会工作により否決され実現はされなかった。

 前大戦により登場した航空機、電信、戦車、空母などの新兵器の登場によりそれまでの近代戦争とは異なりそれらを活用した戦争の時代が到来した。帝国軍内部の中堅・若手将校は新兵器開発とそれらの運用と国防戦略転換と必要性を痛感していた。しかし、参謀本部及び軍上層部は守旧的思考で大戦前の近代戦争戦略に固辞していた。

 1928年にフランスが独仏国境部にマジノ線と呼ばれる等間隔の要塞線の建設が始まった。参謀本部及び軍上層部は1929年にフランスに対抗し独仏及びベルギー国境部にかけてヒンデンブルク線と呼ばれる等間隔の要塞建設を始めた。当初は長城のような要塞線が計画されたが予算の都合と攻勢を主眼に置いた国防戦略であった。この要塞線構築により国防予算が圧迫され兵器開発が停滞する事になる。

外交政策

 エーベルト政権からの国際協調路線を引き続き継続し1926年にイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ベルギー間でロカルノ条約が締結した。左記の5ヶ国における地域的集団安全保障条約である。この条約は10条からなり、ヴェルサイユ条約の定めたドイツ・フランス国境及びドイツ・ベルギー国境の現状維持、ラインラント及び独仏国境地帯、仏ベルギー国境地帯における軍隊駐留の禁止、ドイツ・フランス・ベルギーの相互不可侵、国際紛争の平和的解決、そしてこれらに対するイギリス、イタリアの保障などを規定するものである。